相澤 陸朗武久
あいざわ ろくろうたけひさ(宮崎区)

石碑の要約
荒神(堂)に囀る鳥、雨宮山王宮の祭礼、村を装う杏花、入会地の田植え、生仁川の蛍、西山(北アルプス)の夏雪、東山に懸る秋の月、古城の晩鐘。これらは道学館(道場)の八景である。
この道学館の主人が名物とした景色である。
私は次のように聞いている。相澤武久先生の性格は勇猛であり、身の丈は6尺(180cm)に及び、筋骨隆々として身体も大きく、その力量は普通の人をはるかに凌いだ。
平日は撃剣を好み、その腕前は神技かと思われるほどであった。有志の文筆(相澤六朗の著作という意味か)は次のことを教えてくれる。
彼が威厳を持ち、しかも荒々しくはない人(威厳はあるが風流を嗜む人物という意味か?)であることを。ここに記す。
壬午(明治15年)の秋、旅の途中にて 松軒老人
(訳:柄木田文明氏)
寛政3年(1792年)生まれ、幼名を佐十郎で号は道学館、通称を陸朗といった。父は佐五左衛門といい、母は高野氏である。祖先は源頼朝の幕下で相州相沢野の住人相沢六郎重光であるという。子孫は代々村上氏に仕えた武人であった。村上氏が滅びてから後は、農民となって佐五左衛門に及んだ。幼児期から家系を見て武士を志し17歳で上田藩士 宮下勇右衛門の養子となり、和十郎または勇大夫と改称した。剣術・槍等を修め25歳の時には免許皆伝、同門の千葉周作と共に中西門下の二王と称され名声は、日本全国に知られた。29歳で上田に帰り、後に宮下氏から離れ生萱村に帰る。それから 相澤陸朗武久と名のり諸国遊歴の旅にでる。天保11年(1840年)生萱村に戻り道場を開き多くの門人が集まった。身体強健、立居振舞が厳正で皆に尊敬されたという。 嘉永5年(1852年)に、60歳で死亡。地図
島田万之助
しまだ まんのすけ

嘉永6年(1853年)7月農家に生まれる。農業の傍ら書画、俳句歌舞を好み、俳号露香の名で親しまれた。明治17年(1884年)戸塚助治とともに本村の地図を作成した。他にも森村沢山の地図および字図を作成した。明治27年(1894年)40歳の時、生萱北山の地獄沢の利用を思い立ち、以後11年の長い間苦難を乗り越え200本の杏と林檎の見事な果樹園を造成した。杏の品種改良に努め、当時の大杏と称された「平和」を作り出した。自家の襖、屏風等 自筆自作の書画 俳句など自ら表装して楽しんでいた。宴会では歌舞に興じたことは語り草に残っている。昭和5年(1930年)10月に、78歳で死亡。
「何事も不足がちにて事足りれば 人のたからはうらやまぬなり」と語った。
石碑に書かれている文書
島田万之助は、嘉永六年七月、生萱の農家に生まれ、天性器用な上に多くの趣味を解し家業の傍ら書画を書き俳句をつくり歌舞を好み号を萬果とした。明治十七~八年の頃、戸塚助治とともに本村の地図を作成した。今、役場に備え付の写図は、その時のものである。このほかにも森村沢山川の地図および同村の地図を作成した。
四十才の時、生萱北山の不毛地、地獄沢の利用を思い立ち所有地五反歩を開墾して、杏・芋の苗木二百本の植付をした。ところが、この地獄沢は人の顧みない文字通りの禿山で、大雨が降れば柔らかい作土は残らず洗い流されて、土の骨が現れ旱の時は堅い土のみで水分がなく土地は南へ急に傾いているので暑さが厳しい。そのため植え付けた苗木がほとんど全部枯れて、大きな損害を受けたことは一度や二度ではなかった。こうした苦難を乗り越えて、山を家とし天水を呑んで前後十一年の長い間根気よく補植えし肥培管理を怠らなかった。その苦心が報いられて、二百本の杏と芋の見事な果樹園となった。これが本村で芋を栽培した始まりである。万之助は、果樹園を造成するとともに、杏の品種を試作して、その改良に努め、金時大杏と称し、大粒で肉の厚い甘味な新品種を造り出し諸方へ分譲した。これが今好評な杏(平和)である。
万之助は、常に身なりを飾ることなく、農人としての誇りを「果樹園造成の十徳」に記し、また農衣を神聖なものと信じ、新調の作業衣を着て東京見物に行き、東京でその写真を撮って記念とした。
その他、果樹園の山小屋で天水をためて風呂を沸かし、高い処から合図にほら貝を吹き鳴らし、村人を山小屋に招いて天水の湯茶をすすめた事や、自家の襖・屏風などに、自筆・自作の書画・俳句などを自ら表装して楽しみ、宴会に興じれば歌い舞いなどしたことが、語り草に残っている。
昭和五年十月十五日 七十八歳で死亡した。地図
何事も不足がちにて事足りれば 人のたからはうらやまぬなり
天水呑居述懐 石碑文書提供:島田袈裟二氏
中島 信通
なかじま のぶみち
明治18年(1885年)8月生まれ、号を一操と称し生け花、俳句、彫刻に巧みであった。
昭和7年(1932年)に村の収入役、昭和18年(1943年)には助役となる。
彫刻には、雨宮坐日吉神社の神事踊りに用いる面や埴科縣神社用の面が有り、家には欄間の彫刻等数々の作品を残した。
昭和25年(1950年)5月 66歳で死亡。
寺内 松雪
てらうち しょうせつ
名を群一朗といい、 明治3年(1870年)3月 中島信一朗の二男として生まれ、7歳の時に寺内芳木の嗣(し・跡継ぎ)となる。
教員として、埴生、屋代、倉科で教鞭をとり47年の長きにわたり生涯を児童の教育にささげた。
松雪の書は森、倉科、屋代等に掛軸、襖などに多く残っている。
松雪の号は、師の宮小路浩潮が与えたもので、竹城、梅城と共に三門弟の一人。
越 友弥
こし ゆうや
明治半ばころ蟹水道の効果を知り、湿田を改良して二毛作とした。
生萱沖は湿田の為、明治以前は裏作ができなかった。
まず自分の田に蟹水道を設けて、裏作に小麦を蒔き成績得た。
これを、皆にすすめ十二町歩の湿田を、二毛作にす る原動力となった。
寺内 芳木
てらうち ほうぼく

もとは、播州姫路藩士であったが、故あって浪人となり 生萱村の蓮華寺に隠捿して良禅と号した。文政7年(1824年)姫路に生まれた。
芳木は、文武両道に秀で村内の子弟を教育することがすこぶる懇切であった。地図
高野 杏順
たかの きょうじゅん

宝暦10年(1760年)生まれ、幼名を友尚、号を東旭斎という。父は新右衛門といい代々農業を営み35石を有して豊かな生活をしていた。禅透院の禅師について読書き・算筆を学び神童の誉れが高かった。松代藩医 山田徹を師として医業を修め、後に杏順と称した。若い時、大衆の模範になろうと思い、琴・碁・将棋・書道・絵画・謡曲・生花・茶道・詩歌・俳句等を学ぶ、礼式は小笠原流 武道はト伝流を究め、天才的な光をあらわにする。医業の傍ら子弟に読書と技芸を教えた。容姿端麗、弁舌巧み、常に厳格で有り村人は感化され風紀が大いに改善された。天保15年(1844年)85歳で死亡。残っている書画は、土口正応寺・生萱蓮華寺のマンダラ、蓮華寺大門の庚申の書も知られている。地図
中島 弧山
なかじま こざん

石碑の要約
埴科郡雨宮縣村大字生萱村に生まれた。長吉は自分で「弧山」と呼び名を付ける。幼い時から学問が好きで、高野正庵や倉島養碩及び東條苔石に、詩文や書道を学ぶ。又、西野杉軒に書法を学んだ。その結果、成績が非常に優秀で人に教えることが出来るまでになる。人として徳が有り、弧山の学問・道徳に憧れたり慕って、学ぶ者が百余名となる。又、遠くは小縣郡室賀村へも数ヶ月間に及び、子弟に教えたこともある。その子弟が育って、六十三人の優秀な人が教員となり、詩・詩歌・学問・稲作等を、大勢の子供達に教えて、人材育成に務めるに至る。
明治初年に、生萱村学校で教鞭を取り、退いても村民の要望に従って、自宅で少壮の子弟に、漢籍や書道を教える。隠居してからは、詩を作ったり庭いじりをして楽しんでいる。
弧山は、「恬淡名利」(心が安らかで無欲で名誉と利益)を好まず、真に「隠君子の概」(目立たない様にしていて人格が立派な人の趣)が有る人である。地図
(訳:髙野弘太郎氏)
名は長吉、弧山は号 嘉永2年(1849年)2月 中島壮八の二男として生まれる。学問が好きで、詩文や書道を学んだ。子弟は多く百余名、遠く小県郡室賀村にも出張し数か月教えた事も有った。明治初期頃は生萱村の学校で生徒を教えたことも有り、退いてからは自宅で漢籍書道を教えた。
明治44年(1911年)門弟が宮崎の地に寿碑を建てた。
大正12年(1923年) 74歳で死亡。
日本刀と短刀の由来

この日本刀と短刀は、中島信世様が自宅で保管されていた物です。
中島信世様からの聞き取りしたことを要約すると、曾祖父にあたる中島長吉氏が、会津戦争に出兵したときに保身用として使用した物だそうです。今まで自宅で保管されていましたが、後世に伝承したいとの思いから、個人が保管しておく物ではないと判断され、埴科縣神社に奉納することとし、現在は埴科縣神社の倉庫に保管されています。
尚、写真の軍刀は不明とのこと。日本刀と短刀の刀剣保持許可書は、同じく埴科縣神社で保管しています。
- 聞き取り日:平成27年6月23日
- 奉納日:平成27年6月28日
- 聞き取り者:平成25年度 氏子総代主任 島田武久氏
- 奉納立会人:平成27年度 氏子総代主任 鴇澤忠夫氏
会津戦争とは
戊辰戦争の一つで、慶応4年(1868年、明治元年)新政府軍と、これに抵抗する奥羽越列藩同盟の中心となった会津藩との戦いで、1ヶ月後に会津藩が降伏し、開城によって終結した。その後、白虎隊が自刃した。
高野 一道
たかの いちどう
明治時代の蘭方医で順庵と号した。天保4年(1833年)更級郡境新田村(信田村)丸山段蔵の三男に生まれ生萱村 高野正庵の跡を継いだ。
高野氏は代々医師を生業にして松代藩に仕えた。一道も医者となり戊辰の役には松代藩の軍医として従軍し功績があった。生来無欲で医療はまったく仁術で薬礼を請求したことが無く、埴科・更級郡で、その恩恵を受けた者は数えきれないほどだった。
煙火にも興味を持ち、日本で一番早く2尺玉花火の打上げに成功した人と言われている。岡崎(愛知県岡崎市)の花火師から製法を伝授されてから、4年後の秋祭りに2尺玉花火の打上げを決めて準備をした。祭りの日の打上げ場所は、西湯沢の田圃で埴科大宮神社から導火線に点火、途中で消えてしまい2~3度やり直したが大筒迄届かず、一道が自身で大筒に火を投げ入れたが大筒が破裂して破片が飛び散り稲穂も打ち落とされ大失敗に終わった。その時の費用は莫大で当時500円(籾150俵相当)の大金を要したと言われている。明治33年(1900年)雨宮小学校の開校式に、2尺玉を打上げ祝意を表わす事が決定し、依頼を受けた。一道は、2度と失敗しないように大筒の爆発を防ぐ工夫(箍を1つおきに強く・緩く締め直した)又、火薬の量も永年の経験に基づいた知恵で量を決めて打上げに備えた。
当日は3発の花火を用意して、噂を聞いた近郷近在遠方の人々約5万人が埋め尽くし見守る中、3発共に打上げは大成功のうちに終了した。その後、大正10年(1921年)天皇が欧州旅行から帰国される日の歓迎式に信州煙火同好会が2尺玉5発を打上げて東京人を驚かせた。これ以来、長野県の花火は日本一の名声を挙げた。その陰に、高野一道有り。明治34年(1901年)生萱区民は一道の徳をたたえて生前に銅像を建てた(埴科縣神社の参道の横)が、大東亜戦争に際し金属回収により供出された。
その後、親族により昭和53年11月に再建された。 明治45年(1912年)1月に80歳で死亡。
(埴科縣神社の参道の横) 地図



雨宮小学校開校時に2尺玉花火を打上げた時の写真。
大筒の前の老人が高野一道 左手後方に見えるのが新築校舎
二尺玉の傍らの白衣の青年が久保健之助
島田 至武
しまだ よしたけ
文化10年(1814年)3月生まれ。剣術柔術を相澤陸朗武久に、砲術を山口惣左衛門に、算術を町田源左衛門について学んだ。謡曲を良くやり、算術を郷中の子弟に教えた。邸内には「遥算門人中 辞世ゆく先は雲か霞か海原か 道もなければまよう瀬もなし」と刻した石碑がたてられた。 明治40年(1907年)8月に92歳で死亡。
島田 一亭
しまだ いってい
名を健治といい、松生斎と号した。天保13年(1842年)7月生まれ、父は至武(よしたけ)。
謡曲の大家であり、生け花の宗匠であった。門人は多く埴科・更科に及び百余名を数えた。村長に二度当選し、村の行政に大きく貢献した。73歳の時、門弟が邸内に寿碑を建てた。 大正5年(1916年)2月に、74歳で死亡。


