「生萱ぶらり歴史さんぽ」冊子制作について

冊子

『いきがや』どんな歴史があるのだろうか?
十数年前の区民の意識調査で多くの声があり、「生萱を知る会」が発足しました。
私達が子供の頃は、御柱祭は勿論、春、秋の祭りは区民全員参加で御神事や青年団の楽団演奏、喉自慢や踊りなどさまざまな催しに合わせ、幾つかの出店が軒を連ね賑やかに村人がこぞって楽しんでおりました。
生萱小唄には、「♪縣の庄とてその名も古き命生萱杏の里」と唄われております。
それは、この地を治めた領主の墓(古墳)森将軍塚を中心に倉科将軍塚・土口将軍塚・川柳将軍塚と、この地を取り囲む多くの古墳、遺跡が物語っております。
又、千曲川はもっと北を流れ今の横田とは地続きで埴科地域の国府・国分寺もありました。
この様な由来ある土地で、我々の祖先が脈々と暮らして、その時代毎に多くの遺産を残されてきました。
この地に生きる者の責務として、この貴重な財産を次世代に引き継ぎ、更に途切れる事無く伝えて行く事、小学生から大人まで区民一人一人が係わりを持ち関心を深めて頂き、生萱の歴史をもっと知って頂きたいと願っております。愛する郷土の発展に少しでもお役に立てればと会員一同念じて、発刊のご挨拶と致します。

令和3年1月
  生萱を知る会 会長 宮島 豊

生萱ぶらり歴史さんぽ 表紙 目次

表紙の絵は(埴科縣神社の御神事掛軸)大正15年(1926年)4月、御柱祭(申/寅年)と生萱区の神事祭礼(御神事神踊り)が埴科縣神社を舞台として合同で催行された時の...

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埴科縣神社

埴科縣神社明治39年(1906年)「神社寺院仏堂合併跡譲与に関する件」を機に神社の合併が進み不用となった境内宮有地を合併した神社に譲与する事を許可し、半強制的に一村一社に...

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埴科縣神社御神事経緯

令和元年 現在御神事を執行しているのは、雨宮日吉神社が3年に一度、国の重要無形文化財の指定を受けているため実施している。御神事発祥の歴史は、正確には判らないが、遠く奈良時代に遡る...

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村社 ほか

上生萱神社(村社)所在地は、村の辰巳(南東)の方、字石原南山にあり、建立は不明であるが、永禄12年(1569年)天和3年(1683年)諏訪大明神修復とある。古来より諏訪神...

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寺院

観音寺観音寺観音寺碑かんのんじ慶長8年(1604年)、生萱の地に開基されたと言う。川中島平一帯を松平忠輝が治めていた時代、北國街道が開かれ宿駅...

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五台山文殊堂

文殊堂文殊堂の由来五台山文殊堂尊は、慶長元和元年(1615年)に真田幸村公に従い、大阪の戦陣に出兵した3人の兵士が、戦いに敗れて帰郷の時に大阪府東成郡鴨野村の草堂...

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城跡、遺跡、塚

天城(てしろ)城跡天城スケッチ天城スケッチ山頂大穴塚大穴塚立地...

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佐久間象山記念碑公園

多くの区民が完成を祝った除幕式に参加された元最高裁長官横田正俊夫妻真田宝物館象山記念館の佐久間象山像除幕式神事...

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道祖神・庚申塔・馬頭観音

道祖神道祖神は、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に碑や石仏の形態で祀られる神で、村の守り神。子孫繁...

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生萱の偉人碑・像

相澤 陸朗武久あいざわ ろくろうたけひさ(宮崎区)相沢陸朗武久碑 (相澤忠明氏宅の南側)石碑の要約荒神(堂)に囀る鳥、雨宮山王宮の祭礼、村を装う杏花、入会...

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雨乞い地蔵

雨乞い地蔵その昔、弘法大師が真言宗の布教のため、全国行脚の折に、当生萱の地に立ち寄られ、夏の暑い時期のため、喉が渇ききって大変困っておられ、村人に水を所望された。村人は、...

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建造物・遺構

旧雨宮小学校校庭での地区運動会雨宮小学校跡地*雨宮小学校の歴史国土地理院航空写真 旧雨宮小学校 「はやしや食品...

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生萱地区災害の歴史

戌の満水いぬのまんすい寛保2年(1742年)8月1日・2日に大洪水が起こりました。戌年だったので、戌の満水と呼ばれています。7月27日から降り出し...

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方言・地名

生萱近辺で使われた方言(主に北信地方)言葉意味あたけるあばれる、さわぎ動くあばけるふざける、たわむれるあまびら蛾い~もち分家いぼつるむくれる、むっとするえ~す...

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生萱の四季

ドローン撮影提供 測地様

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あとがき

 いきがやは、古くは生仁遺跡や北山古墳群などの遺跡が、又周辺には唐崎山城・生仁城・鷲尾城など多くの遺跡が存在しています。 弥生時代(2200~2300年前)には既に人々が生活の場...

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