
明治39年(1906年)「神社寺院仏堂合併跡譲与に関する件」を機に神社の合併が進み不用となった境内宮有地を合併した神社に譲与する事を許可し、半強制的に一村一社に合併処置をとった。明治40年2月神社氏子総代会を開き 上生萱・埴科大宮・荒神社・皇大神社の4社を合併し埴科縣神社と改称し生萱区一円の産土神社となった。
明治40年4月に県に神社合併願いを提出し12月に受理され、明治41年2月登記完了し、神社社殿落成届を提出し名実ともに埴科縣神社への合併を終了した。
そこで、村民老若男女一丸となって 参道から本殿まで雑木林の整備から整地、石垣積などの難工事の連続だったと推察するが、工事期間は1年4ケ月程という驚異的な速さで明治42年4月完成した。特に本殿は急斜面で、当時すべて人力で工事を成し遂げた先人の偉大さにただ驚くばかりである。この地区は、区民一丸となって事に当たる原点がここにあった。地図
神社に祀られてある5人の命(みこと)
- 建御名方命(たけみなかたのみこと)
- 八坂刀売命(やさかとめのみこと)
- 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
- 澳津比売命(おくつひめのみこと)
- 澳津彦命(おくつひこのみこと)
定例祭事
元始祭 春季例大祭 斎田祭(さいでんさい) 風神祭 秋季例大祭 新嘗祭(にいなめさい) 越年祭 月並祭
数え7年に一度 御柱祭、その他 お宮参り
埴科縣神社の御柱祭について

御柱祭の起源は、諏訪大社を総本社として全国に2万5千社あるといわれている。
その総本社諏訪大社では、1200年前の平安時代以前から農耕の神とされ、五穀豊穣を祈願する祭事であった。
御柱祭は、7年に一度(6年目:申年/寅年)行われ、諏訪大社の祭りは日本3大奇祭として知られ、柱の選択⇒伐採⇒山出し⇒里引き(途中坂落とし)⇒建御柱(祭りの最後)まで、2か月近く様々な行事が繰り広げられる。
諏訪大社と一口に言うが、御柱の建てる神社は、①上社本宮(諏訪)②上社前宮(茅野)③下社春宮(下諏訪)④下社秋宮(下諏訪)の4つの神社があり、それぞれの神社で4本の柱を奉納するので、合計16本の柱が奉納される。
柱は、明治以降はモミの木になったが、以前はカラマツやスギなどであった。現在の柱は、直径1メートル・重さ10トンもの大木もあるという。
上社や下社の氏子は、将来の御柱を見据えて、植林や山の手入れにも力を入れているという。
この諏訪大社の御柱祭も、当初は現在行われている形式とは相当異なっていると思われるが、祭りの目的や精神は生萱の埴科縣神社の御柱祭と共通するところがあるのではないか。
埴科縣神社の御柱祭は、明治40年の4社(上生萱・埴科大宮・荒神社・皇大神社)合併された時から実施されたと思われる。以来、平成28年の第18回目が直近の祭事で戦時中は中断した時期があった。その後の祭事開始から、木親制で柱材の提供や祭りの経費を負担して頂く事が通例となっていた。時代が進み、木親を引き受けて頂く方を探す事が困難になり、協議の結果、祭りの実行委員会制を採用して、祭りの経費は氏子全体の寄附や役員のご厚志などによって賄うように改め、全ての経費を実行委員会で負担するようになり氏子すべての方に楽しんで頂くようになった。
行事内容は、各常会から実行委員を選出して、御柱の下見(4本を選択)⇒山出し⇒一時保管(安全祈願、皮むき)⇒祭り当日里引き(氏子全員)、道中祝い酒が振舞われて神社前に東西の御柱が揃ったら、神社石段引き上げの順番をくじ引きで決めて、順番に境内に引き上げた。
境内では、建御柱の準備が行われ2本の御柱が揃ったところで、神主による安全祈願を実施後、順番に建御柱を行い、最後に2本の御柱の最上部に表示板を取り付けて完了となる。
完了後、境内の広場で盛大に祝宴が行われた。
以上、埴科縣神社の御柱祭の原点である諏訪大社の祭事の現況を合わせて纏めました。






