昭和34 年(1959 年)ころ、民謡が全国的に流行し、小唄、音頭などが各地で盛んに作られ歌われました。
生産区でも、もの好きな人達が集まってはいろいろな民謡などを歌い楽しんでいました。
そんなある日、西村可一氏が二六詩四首を作り、野沢一雄氏が作曲、それを練習の席上で発表し好評でした。
そこで、これを生萓小唄にしようと、縣吟社が生萱に伝わる物語や日常の風景をもとに作詞して十二首とし、舞舞踊連が振付を考案、小唄会を組織しこれを披露することとなりました。その会には信濃毎日新聞記者、山路愛山氏および写真班員が訪れ実演を鑑賞、郷土から生まれた小唄と題して新聞紙に掲載され広く世に知られることとなりました。その後、各地の慰安会や演芸会に出演して、優勝旗優勝杯を得たことが十数回に及ぶなど好評を得、以降、夏の盆踊りなどで区民に愛し育まれてきました。

盆踊り
生萱観音寺にて 昭和30年代後半

歌詞

生萱小唄歌詞

唄 演奏

三味線 太鼓 録音時期 不明 

録音時期 不明

紙芝居 「いきがや小唄 ぶらり歴史さんぽ」

生萱小唄の1節1節には地域の歴史、日常の風景がうたわれています。
これを題材に文章と絵を仕上げ、紙芝居にしボランティア活動を通じて多くの人に触れていただきました。