文殊堂
文殊堂

文殊堂の由来

五台山文殊堂尊は、慶長元和元年(1615年)に真田幸村公に従い、大阪の戦陣に出兵した3人の兵士が、戦いに敗れて帰郷の時に大阪府東成郡鴨野村の草堂で一夜を過ごす折、夢枕に文殊菩薩の尊いお姿を拝芝し「私を信州に連れて行く様」仰せられ、3人で相談の結果、此処まで命有りて来られたのも何かのご縁とばかりにお連れする事で一致、文殊菩薩を背負い信州生萱村までの遠い道のりを果たして無事に辿り着くことが出来るであろうか、途中で追手に捕えられて首を刎ねられないかと、夜を徹して交代で背負い飢えを凌いで故郷の生萱村に辿り着いたという。
3人を出迎えた村人達に事の次第を語り早速村の阿弥陀堂に仮安置した。(長坂の地)3人が無事に帰った事は文殊菩薩様の御加護の賜り物であると村人達は喜び合ったという。年を経て、寛政6年(1794年)2月 阿弥陀堂が永年に渡り雨風にさらされて破損が激しく、その上場所が悪いこともあり、新たな文殊堂の建立について談合した結果、衆議一決し建立することとなり、場所は現在の地(埴科縣神社の境内)を選定した。そして、大工棟梁は宮崎組在住の直右衞門とした。寛政7年(1795年)正月、村人達は寒さの中にも拘わらず地固め造成、木材集めと奔走し、近隣の老若男女の信者が惜しみなく労の奉仕を重ね、一年余りで寛政8年(1796年)に堂は完成し文殊菩薩を安置することが出来た。地図

文殊堂倒壊と建立

文殊堂落慶記念
文殊堂落慶記念 1981年(昭和56)5月26日

(1)倒壊と建立

文殊堂は、昭和9年9月の台風の襲来により倒壊した。
その後、奇特な信者の善意で仮堂が建てられ御尊像を移されたが歳月の経過とともに風雪は仮堂を侵食し雨露を凌ぐに堪えがたい状態となった為、やむなく御尊像を蓮華寺本堂へ移すことになった。
この現状を憂慮した信者達が、由緒深い郷土の文化遺産を後世に伝承していくべきと考えて、初代会長の島田喜八氏を中心に協議の結果、現在地に新たに文殊堂を建立することを決定した。
昭和58年に「生萱五台山文殊尊奉賛会」を設立し、再建に向けた活動を開始して地元はもとより法縁に繋がる多くの方々から多大な奉仕と支援により、昭和60年5月に完成し賛同頂いた方々を招いて落慶祈念法要を実施した。

旧文殊堂
明治34年初代高野一道像除幕式に写る旧文殊堂の姿


(2)大工棟梁直右衛門について

文殊堂の由来(15ページ)の所で、寛政7年(1795年)の文殊堂建立について記しました。
その時の、大工棟梁直右衛門について紹介します。
直右衛門は、越後の国蒲原郡舟戸村(現在の新潟県巻町)の出身で、古文書に依ると天明2年(1782年)に身の廻りの物と大工道具に少しの金子を持って生萱村の観音寺に到着したと云う。その後、宮崎組に住居を構え、生萱村の三郎兵衛の娘と世帯を持つ事が出来た。文殊堂の再建に当たっては、大工に甥の要八、松代町の理右衛門又倉科村の太兵衛等近郊の職人が多勢協力した。そして、直右衛門の棟梁としての采配振りは一目おかれていたと云う。残念なことに直右衛門は、文政4年(1821年)死去。(年齢不詳)子孫は文政年間に住居を人に譲り此の地から越後に引き上げたと聞く。
現在、観音寺裏山に直右衛門夫婦と子供達の墓があり、髙野氏にて守っている。

文殊堂の現状

文殊堂に安置されている三体の仏像

阿弥陀如来立像
阿弥陀如来立像
文殊菩薩坐像
文殊菩薩坐像
不動明王立像
不動明王立像

安置されている仏像

  • 阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)
    西方にある平和で楽しい極楽世界を人々の上に立って、全体の取りまとめを行う仏。浄土宗、浄土真宗
  • 文殊菩薩坐像(もんじゅぼさつざぞう)
    仏教で知恵をつかさどり、仏になるために悟りを開き、多くの人々を救おうと修行を重ねた仏。般若経
  • 不動明王立像(ふどうみょうおうりつぞう)
    五大明王の中央の位置で、悪魔・煩悩を降伏し、仏道を守る仏。真言宗、天台宗

年間行事

  • 毎月25日を目途に、役員による月並法会
  • 1月⇒合格祈願法会
    大学・高校など入試予定者で、地区内及び近隣の希望者にお参りして頂きます。
  • 7月⇒茅の輪くぐり
    毎年雨宮保育園児を招き、ひとりひとりが茅の輪くぐりをしてお参りします。
  • 12月⇒越年祭
    年末年始に、多くの区民にお参りして頂きます。