観音寺

観音寺
観音寺
観音寺碑
観音寺碑

かんのんじ
慶長8年(1604年)、生萱の地に開基されたと言う。川中島平一帯を松平忠輝が治めていた時代、北國街道が開かれ宿駅を配置、矢代宿が、その後たびたび焼失した為、再建出来なくなり観音堂に引き移りとある。元禄4年(1691年)石原組の角右衛門の地、九朗兵屋敷を高野家先代の新九郎が寄付し、寛延4年(1751年)現在地に彗州和尚により再建された。
以後約百年経過し慶応4年(1868年)3月に維新政府は神仏分離令を出すが、松代領内は平穏無事で聖観音菩薩・不動明王毘沙門天も無事であることが確認された。
明治43年(1910年)8月の台風で堂は崩壊した。その時、千曲川の氾濫で生萱~稲荷山まで一面の湖と化したと古事記にある。その後、住職の虎白和尚が先立ちとなって、本寺の禅透院を筆頭に村内外の信徒により寄付を依頼し、大正元年(1912年)に間口六間(10.8m)・奥行五間(9m)のお堂が完成した。永年お堂前庭は、村人葬儀の際に関係者が多数集まり故人と別れの野辺送りの場であった。又、夏のお盆の夜は、櫓を建て三味線太鼓のお囃子で生萱小唄を唄い盆踊りの場でもあった。
現在は、年に一度 禅透院住職によって法要を行っていますが、区民も希望者が多数参加しています。
又、寺の両横及び裏側に、生萱地区住民の墓地が多数あります。地図

石碑の要約

臥龍禅師の筆塚、信州飯山の生まれで、幼少にして学業に励み、禅師となる為に禅透院に入門する。
毎日、山の仕事をしたり庭の花を眺めたりしながら、修行に励んでいた。やがて、衣を身に付けて公の場に出られるようになる。その後、佐久郡平井村の最明寺にて修行を行い、年月が過ぎて観音寺に戻ってみると、寺の修理もままならない状態であった。そこで、臥龍禅師は、堂舎を始め周りの建物の修理を手掛けながら、近隣の子供達を集めて寺子屋を開き、多くの賢人を輩出する。臥龍禅師の、徳を偲んで寄附を集めて、碑を建立する。
                                (訳:髙野弘太郎氏

興正寺跡

こうしょうじ
大城山興正寺と称し、浄土宗の寺院で本寺は京都の知恩院である。本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音・勢至菩薩である。
初めは、生萱村の大城山麓に創建され、天文21年(1552年)兵乱を避けて森村清水堂に移る。
この時、本堂は兵火で焼けたといわれる。(現在、跡地とされる場所には何の痕跡も残されていない)
その後、衰退していたものを天正2年(1574年)、増上寺第十世鎮蓮社感誉上人願故存貞が再興した。感誉上人は、北条氏の家臣、大道寺駿河守政繁の甥である。
天明6年(1786年)火災で焼け、寛政年間に堂宇が再建された。地図

興正寺(浄土宗)の全景
興正寺(浄土宗)の全景

禅透院跡

ぜんとういん
禅透院は、大昔生萱字大城にあったと伝えられている。創建年月は明らかではないが、弘治元年(1555年)に兵乱を避けて森村に移る。又、雨宮摂津守の香華院であると言われている。
 現在、跡地とされる場所には何の痕跡も残されていない。
 森の禅透院は、神龍山禅透院と称し、曹洞宗に属する寺院で本寺は佐久市の貞祥寺であり、開基は清野入道清寿軒(山城守勝照)で、開山は節香徳忠である。徳忠は佐久伴野の城主伴野佐渡守光利の子で、文明6年(1474年)に生まれた。13歳で出家し、大いに学ぶところがあって名声が広まった。長じて父光利の請によってその建てた寺を開き、祖父の法号から貞祥寺と名づけた。
 徳の高い名僧ということで、諸方の土豪が徳忠を招き、開山とすることが多かった。禅透院は天文11年(1542年)7月、清野氏の招きで徳忠が晋山して開山となったものである。その後、各寺の開山として各地におもむいたが、永禄8年(1565年)4月15日、禅透院に戻って本堂で隠居した。
 開基の清野入道は永禄8年(1565年)、領主の雨宮摂津守正法は天正元年(1573年)没し、両氏の位牌が現存している。そのため雨宮坐日吉神社の御神事は、江戸時代当院で本格的な神踊りをするのが例となっていた。寺には清野入道の納めた刀のほかに、川中島合戦後当院で自刃した小宮山某の位牌や遺品が残されている。なお本尊は釈迦如来で、脇侍は文殊・普賢菩薩である。
地図

禅透院(曹洞宗)の山門
禅透院(曹洞宗)の山門

蓮華寺

蓮華寺
蓮華寺

れんげじ
蓮華寺は、天正9年(1581年)3月に創立、松代町東寺尾の「福徳寺」の兼務寺であり永年にわたり福徳寺との友好関係が保たれていた。しかし、大東亜戦争が始まり、やがて敗戦となり、国民が一丸となって復興に明け暮れていた。そんな中、農地大改革があり、その後解放制度の煽りを受けて地主不在のレッテルを貼られ、田畑の殆どが解放され無財産になってしまった。
明治5年(1872年)に「学制」がひかれた時、生萱村は森村区と同じ学校区であって、森村に「有明学校」(興正寺)があり、生萱分校が蓮華寺を校舎にして設けられた。
明治15年からは独立して「生萱学校」となり、明治19年連合町村制がひかれて、雨宮・土口と統合して「雨宮学校」(旧雨宮小学校)となった為、生萱学校としての役割を終えた。
 時は過ぎ、昭和50年頃より永年絶えていた「福徳寺」との交友を復興しようと歴代の区役員が
懸命に努力をしましたが、宗費滞納分に不明朗な点が有り、なかなか折り合いがつかず数年が経過した。
その後、松代町西条の「清水寺」住職戸谷隆丸師に依頼して蓮華寺の兼務住職になって頂いた。
そして、昭和63年9月からは毎年施餓鬼法要を執行されてきましたが、平成9年隆丸師病気で
御逝去され、現在は隆丸師の甥(養子)の 戸谷龍丸師住職により毎年秋に区役員と墓檀家役員で
施餓鬼法要を執行している。
又、寺の裏側には、生萱地区住民の墓地が多数あります。地図

本誓寺跡

本誓寺橋
本誓寺橋
倉科の杉山の秦木場沢
倉科の杉山の秦木場沢
杉山古墳群
杉山古墳群

上の写真は倉科の杉山の秦木場沢(はたこばざわ)の最上部、水源地の所に、幾分平坦地がありそこが本誓寺跡地とされる。この参道がすごく、石畳が敷かれ、その石は石英縁岩の板状石です。

左の図は倉科史跡案内図の矢印の場所に杉山古墳群があり、その近くに本誓寺跡地があった。

ほんせいじ
本誓寺は、生萱に本誓寺という字があって、土地台帳にも村図にも記され、北は雨宮字生仁に接し、東は生萱の字島に隣接、南は生萱の字八反町と字横沢に連なり、西は一本尻川を隔てて森村と界する。この字の北部の畑を「なもみばたけ」といい、ここが本誓寺の寺域で、東に向かって長さ45間(81m)の大門の跡と、附近に寺と縁のある法縁塚、ネコ掛橋などがある。
本誓寺は浄土真宗の開祖親鸞が直弟是真に譲った寺で、門徒のいう二十四輩の十番にあって有名である。
本誓寺は浄土真宗すなわち念仏宗の大寺であったから「南無阿弥陀仏の寺」といい、略して「なむあみの寺」と呼び、寺のあった処を「なまみ」または、「なもみ」と呼んだのであろう。現在沢山川の西部に沿って、南に本誓寺の字を残し北に生仁の字を残す。これは善光寺のある長野が、もと善光寺と称したのと同様である。
本誓寺の寺伝によれば、建保元年(1213年)倉科村に信濃本誓寺を創建し、同3年南部(盛岡)本誓寺を創建した。倉科村本誓寺は倉科村にあること134年。正平元年(1346年)、生萱村南無阿弥(なもみと読む)に移る。永禄2年(1559年)、再び倉科村に移り、慶長14年(1610年)、松平忠輝がこの寺を海津に移転し、11,504坪の地と倉科村の十石七斗七升を与えた。南無阿弥にあったのは214年、倉科村にあったのは前後合わせて185年である。
因みに、本誓寺は山号を「平林山」または「生仁山」と称した。その生仁から倉科に移ったのは、武田信玄の命によるもので、信玄が兵火によって名刹の焼失することを惜しんだといわれている。
昭和50年に、土地改良区の耕地整理事業として屋代田圃から生萱へ通じる道路が新設される事となった。それに伴い、沢山川に架かる橋として本誓寺橋が誕生し、主要道路となった。