
表紙の絵は(埴科縣神社の御神事掛軸)大正15年(1926年)4月、御柱祭(申/寅年)と生萱区の神事祭礼(御神事神踊り)が埴科縣神社を舞台として合同で催行された時のもの。本絵は、この合同祭において、大行司を先頭とする生萱区民によって、神踊りが埴科縣神社に練りこんでいるところを描いている。4人が獅子頭を背負って階段を登っている。絵は、生萱区の久保寿氏(当時75歳)が画いたものである
目次
* 「生萱 ぶらり歴史さんぽ」冊子制作について 生萱を知る会 会長 宮島豊
* 生萱村について(髙野行栄氏著 生萱地区資料から)
1 神社・・・・・・・・・・・・・1P~10P
2 お寺、お堂・・・・・・・・・・11P~17P
3 城跡、遺跡、塚・・・・・・・・18P~23P
4 石碑、庚申塔、道祖神、他・・・24P~25P
5 生萱の偉人碑、像・・・・・・・26P~31P
6 建造物・・・・・・・・・・・・32P~35P
7 場跡・・・・・・・・・・・・・36P~38P
8 その他・・・・・・・・・・・・39P~46P
* 生萱の四季 全景写真 (ドローン撮影:島田正敏氏)
* 生萱村今と昔の重ね地図
* 生萱村歴史ガイドマップ
* 【参考資料】北信濃 江戸時代の風景 (伊能忠敬の「測量日記」より)
* あとがき 生萱を知る会 島田武久
* 生萱の里 全景写真(撮影:宮島武継氏)、協賛企業の紹介、生萱を知る会 編纂委員名簿
生萱村について
髙野行栄氏著 生萱地区資料から
現千曲市の東端の山ろくに位置し、雨宮村の東、倉科村の北、西には広大な屋代田圃が沢山川を挟んで展開する。
昔からの言い伝えによれば、応永年中(1394~1428年)には、生身大和守・雨宮孫五郎ら村上氏の麾下の土豪の領するところであったという。(土豪=その土地の豪族)
その後、村上氏の支族 清野氏に滅ぼされ、天文年中(1532~1555年)には清野氏の領地となったという(長野県町村誌)。村名の初見は、元和4年(1618年)の信州川中島御知行目録(真田文書)で、「石高、四百参拾弐石四斗八升五合 生萱村」とあり、慶長7年(1602年)川中島四郡検地打立之帳に村名がみえないことから、同年には倉科村か雨宮村の一部であったものが、酒井忠勝(徳川家光の側近)時代に村として独立したものであろう。
村域には大穴塚・老塚・飯盛塚・御蔵塚・遠見塚・皇塚などの古墳が多い。
大城は村の南東の山頂にあり、言い伝えでは生萱若狭守の山城といい、今も城跡がある。
また現長野市松代町寺町の本誓寺は、往古は村の南西の地にあったといい、字に生仁畑本誓寺の地名が残る。同寺は永禄年中(1558~1570年)倉科村に移り、慶長年中(1596~1615年)松代へ移ったという。村の北西山麓の宮崎には、石柱がある。
石杭とも称され、往古千曲川が雨宮村の南部を流れていた頃、船渡しの綱杭であったという。
文化6年(1809年)村の人口は 男 199人、女 175人、計 374人。
北信濃 江戸時代の近郊

伊能忠敬、松代城下から下戸倉宿へ(伊能忠敬の「測量日記」より)
上の地図は、「大日本沿海輿地全図」の、松代城下(左下)から、屋代宿を経て寂蒔村(右上)までの部分です。下が北で、上が南です。左下から右に向かって、千曲川が流れています。伊能忠敬の測量隊が歩いた道は、細い線で表されています。
松代城下
松代城下には、立派な松代城が描かれています。松代城下の細い線は、北(下)から来て、西(右)に折れています。この線は北国脇往還で、曲がり角は木町交差点です。この街道は、雨天で千曲川や犀川が増水して渡れない時に通行する場合が多かったことから、雨降り街道などとも呼ばれました。
清野村から雨宮村まで
松代城下を出ると、これまで直線だった街道が曲線になります。この道は、伊能忠敬が測量した2年後の文化13年(1816年)に改修され、ほぼ直線の街道となりました。左には「清野村越」「清野村」(長野市松代町清野)があります。「清野村越」は、松井須磨子が生まれた集落です。その奥にある「古城山」は日記にある鞍骨山(798m)で、武田信玄が勢力を伸ばす以前にこの地を支配していた清野氏の要害とされています。「岩野村新村」(長野市松代町岩野)で千曲川に近づいた街道は、左に折れ、「土口村」(千曲市土口)を経て「雨宮村」(千曲市雨宮)に入ります。
屋代宿
雨降り街道は、屋代宿に至り、北国街道に丁字路となって合流します。「法花寺」(法華寺)と「須々岐水神社」が描かれています。
